講義アブストラクト

量子現象の数理入門

新井 朝雄先生(北海道大学 名誉教授)

本講義では,量子力学―有限自由度の量子力学および無限自由度の量子力学である量子場の理論の両方を含む―の数学的に厳密な公理論の基本的な部分を解説し,物性理論への簡単な応用を述べる.はじめに,量子力学の数学的枠組みの一つを提供するヒルベルト空間論についての復習を手短に行い,次に,ヒルベルト空間形式による量子力学の公理系を述べ,公理系から導かれるいくつかの一般的事実に言及する.量子力学は,正準交換関係(canonical commutation relations; CCR) または正準反交換関係(canonical anti-commutation relations; CAR)のヒルベルト空間表現として捉えると統一的に理解されることを示すとともに,CCRまたはCARの非同値表現の中に物理的に興味深いものが存在し得ることを例証する.最後に物性理論に現れる諸々の量子系の数学的に厳密な定式化は,どのようになされ得るかを示し,受講者の今後の研究の発展に資したい(取り上げる題材については未定).なお,本講義では,文献[1],[2]に書かれている程度の数学的知識を前提とする.

講師の先生の希望により,この講義は3時間×2日間の講義となります.3日目は先生を交えた研究発表会となる予定です.

研究発表会概要

講義Aでは三日目に発表希望者による口頭発表(発表10分+質疑応答5分)を行う場を設けています.(講義自体は2日間です.)新井先生にもご参加いただく予定ですので,講義Aの参加者を含めて多くの人に発表を聞いてもらい,議論をすることができる場になっています.

発表に当たって

分科会と同様で,発表10分+質疑応答5分の口頭発表になります.内容は分科会やポスター発表と被っていてもかまいませんが,それらとは別にアブストラクトをご提出ください.発表人数は全体を通して6人程度を予定しています.発表希望者が予定数を超過した場合は,講義Aと分野の近いものを当研究会で選択させていただく場合がございますので,予めご了承ください.

磁気秩序による対称性の破れを利用して物質機能を創り出そう

有馬 孝尚先生(東京大学大学院 新領域創成科学研究科 教授)

通常の気体や液体では原子の配列に規則性がありませんが,結晶(固体)になると原子が規則的に配列するようになります.この規則的な原子配列によって,連続的な並進対称性や多くの回転対称性が破れ,一部の対称性だけが残ります.残った対称性は,その物質の機能と密接な関係を持ちます.

磁性体と称される結晶では,低温において,しばしば電子スピンが規則的に配列します.これを磁気秩序と呼びます.磁気秩序は結晶の対称性をさらに低下させ,それによっていくつかの物質機能が発現することがあります.このような磁気秩序による対称性の低下は多極子秩序の概念で説明することが可能です.

本講義では,物質の電気・磁気・力学・熱・光に対する応答が対称性とどのように関連するのかについて議論します.外部電場(磁場)による磁気(電気)分極変化,光や電気の伝搬の一方向流,力学刺激による磁気応答の変化などの機能を例にとって,磁気多極子概念の利点と限界について考えます.

X線を用いた遷移金属化合物の秩序状態とそのダイナミクス研究

和達 大樹先生(兵庫県立大学大学院 物質理学研究科 教授)

遷移金属化合物は,高温超伝導,巨大磁気抵抗効果,マルチフェロイック性,金属絶縁体転移などの興味深い性質のために,物性物理学において常に注目を集めている.これらの系ではd軌道やf軌道が部分的に埋まっており,そのため電子が電荷,軌道,スピンの3つの自由度を持つ.上記の多彩な性質の背景にはほとんどの場合,電荷・スピン・軌道の秩序が起こっており,このような秩序状態を観測することが極めて重要である.本講義では,シンクロトロン放射光とX線自由電子レーザーを用いた秩序状態とそのダイナミクス研究を紹介する.特に強調したいのは,その超高速なダイナミクス,特にピコ秒程度以下の領域の現象であり,時間分解X線回折・分光による例を示す.X線によるピコ秒以下の現象の観測は,X線自由電子レーザー施設,日本のSACLAなどの登場によって急速な発展を見 せている.そして,超短パルスレーザーを組み合わせたポンプ・プローブ型の時間分解測定により,ピコ秒以下のスケールでの格子振動などの格子ダイナミクスや,強磁性体の磁化が消える(消磁)スピンのダイナミクスが実時間で観測されている.これらの研究により,今後は物性物理学の最大のテーマとも言うべき磁性研究における大きなブレークスルーが期待できる.例えば,光によって磁化の向きを変えたり,磁化を増やすなどが考えられる.X線による物性研究の幅広さ,面白さ,将来性などを感じていただきたい.

ガラス系の物理学

池田 昌司先生(東京大学大学院 総合文化研究科 准教授)

私達の身の回りにある固体(hard/soft)には,乱れた構造を持つものが多い.窓ガラスなどの無機ガラスや金属ガラスなどはhard固体からの例であり,歯磨き粉などのペーストや粉体などはsoft固体からの例である.この種の固体をひとまとめに,ガラス系と呼ぶ.近年では,細胞質内のタンパク質の混み合いや高密度な細胞集団なども,ガラス系の文脈で議論されることが増えてきた.実は,これらの多様なガラス系は,その弾性や振動にいくつかの「普遍的性質」を持っている.非アフィン的な変形,乱れたソフトモードの存在,微小な外力に対する非線形な応答などである.つまり,「ガラスはとても脆い」のである.近年,ジャミング転移と呼ばれるガラス系に特有の臨界現象の研究が進展したことにより,このガラス系の普遍的性質の理解が深まってきた.本講義では,この近年の進展について立ち入った議論を行う.具体的な講義プランは以下の通りである.

  1. イントロダクション(連続体力学のおさらい,液体・固体・ガラスとは,ガラス系の普遍的な性質)
  2. ジャミング転移とは何か
  3. ジャミング転移の平均場理論(乱れたバネネットワーク系の有効媒質理論)
  4. ガラス系のマージナルな安定性

分子機械と確率的熱力学

鳥谷部 祥一先生(東北大学大学院 工学研究科 准教授)

生命現象は複雑で多様で動的であり,物理学が得意とする単純で静的な対象とはかけ離れている.それにも関わらず,物理学の裾野を拡張して,物理の言葉で生命現象を解き明かそうという挑戦が進んでいる.本講義では,分子機械を例に,生命現象を物理の言葉でいかに記述し理解しうるのか,これまでに得られた知見を紹介しながら議論したい.特に,分子モーターの運動,細胞表面の受容体によるセンシング,ポリメラーゼによるDNA複製などを扱う.分子機械は多数の原子からなり,微視的な動きは大量の自由度を含む.しかし,機能的に重要な挙動は少数自由度で記述可能であり,比較的単純である.これまで,分子機械を確率的に運動するメソスコピックな系として扱う粗視化モデルが成功を収めている.確率的熱力学は,このようなメソ系のエネルギー論を扱う枠組みである.マクロな熱力学は有限速度で動く現象の扱いが不得手であるが,確率的熱力学は,時間変化を自然と取り込み,非平衡かつ自律的な分子機械の扱いに適している.また,生命現象において「情報」が果たす役割は本質的である.確率的熱力学から派生し発展した情報熱力学は,エネルギー論の文脈で情報を扱うための枠組みを提供し,これまで,エネルギー,エントロピー,情報,速さ等の間の非自明な関係を明らかにしてきた.なお,講師の興味および能力の観点から,本講義では,理論の詳細には踏み込まず,現象の直感的な理解に重みを置く.聴講にあたり,分子機械や生命現象に関する知識は前提としない.

情報熱力学

上田 正仁先生(東京大学大学院 理学系研究科 教授)

情報熱力学は情報理論,測定理論,そして,非平衡統計力学の境界領域に出現した学問分野です.情報理論は物理法則とは独立に発展した学問ですが,情報処理は物理法則に従うデバイス上でなされます.従って,物理法則が情報処理においてどんなファンダメンタルな制約を与えるかを理解することが重要になります.このうち,量子力学が与える制約と新たな可能性を研究する学問が量子情報,熱力学が与える制約と新たな可能性を研究する学問が情報熱力学です.実際は,情報を物理系にエンコードする方法には多大な任意性があり,そのため,論理的に不可逆なプロセスを実装した物理系が必ずしも散逸的であるとは限りません.また,情報の消去も熱力学的なエネルギーコストを伴わずに実行することが可能です.情報処理と熱力学にかかわるこのような諸問題は,マックスウェルの悪魔のパラドックスに代表されるように150年以上前から研究者の関心がもたれていましたが,その解決のためには,情報を取得(測定)したり消去するためのエネルギーコストを定量的に評価する必要があります.量子情報理論,量子測定理論,そして,非平衡統計力学の発展がこの問題を解決する鍵を与えてくれました.講義ではこれらに関する基本的な事項についてお話しする予定です.

Information thermodynamics is an emerging research arena at the intersection of quantum information, quantum measurement, and nonequilibrium statistical mechanics. Information per se is independent of physical laws such as the second law of thermodynamics. However, physical realization of information processing is not independent of physical laws. As Landauer famously put it, information is physical. In fact, there is a great deal of arbitrariness as to how to encode information in physical systems. Therefore, logical irreversibility does not necessarily lead to energy dissipation. In particular, erasure of information can be done with no thermodynamic energy cost. Recently, there have been growing needs of information processing on thermodynamic nano-systems. These include solid-state qubits, nano-mechanical devices, molecular devices, and biological macromolecule. The main theme of this lecture is: What fundamental constraints does thermodynamics impose on information processing? The conventional second law of thermodynamics presupposes a clear-cut distinction between the controllable and uncontrollable degrees of freedom by means of macroscopic operations. The cutting-edge technologies require us to abandon such a working hypothesis in favor of the distinction between the accessible and inaccessible degrees of freedom. The generalized fluctuation theorem which combines the entropy production and mutual information provides a unifying framework for information thermodynamics.