•講義アブストラクト



1. スピンホール効果 —スピン流・電流変換に関わる諸現象-
 大谷 義近 先生 (東京大学物性研究所)


 近年著しい発展を遂げているスピントロニクス分野において、これまでに発見されているスピン移行トルク、スピンポンピング、スピン注入、スピンゼーベック効果やスピンペルチェ効果などの新現象のほぼ全てが角運動量の流れであるスピン流を媒介として発現する。このため、スピン流・電流相互変換を引き起こす代表的な現象であるスピンホール効果はスピン流の生成・検出の基本原理として用いられ、スピントロニクス研究の根幹を成すと言っても過言ではない。
本講義では、このスピンホール効果に注目して実験の観点から詳細を議論する。 具体的には、導入部として巨大磁気抵抗効果の発見から始まるスピン偏極電流に関する研究の歴史的な流れを説明し、強磁性体を用いる面内スピンバルブ構造を用いた非局所スピン注入法によるスピン流生成・検出の手法の説明、スピン伝導を特徴付ける基本的な物性量であるスピン緩和時間、拡散長などの測定手法を概説した後、スピンホール効果の代表的な測定手法を述べる。この手法を用いて測定された金属、合金、酸化物等のスピンホール効果の発生機構について内因性、外因性の二つの機構に分類して実験研究の現状を概観する。
最後に、その他のスピン流・電流変換現象として、最近研究が進んでいるトポロジカル絶縁体表面や異種金属界面に特徴的に生じるスピン運動量ロッキング現象を用いたスピン流・電流変換についても触れたい。

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2.対称性によって保護されたトポロジカル相
 押川 正毅 先生 (東京大学物性研究所)


相の分類は、物性物理学および統計力学の中心的な課題の一つである。特に最近は、量子多体系の基底状態が属する量子相、および異なる量子相の間の量子相転移が注目されている。相の分類は、伝統的には「対称性の自発的な破れ」の概念に基づいて行われてきた。これは多くの量子相転移にも適用できる。一方、このような伝統的な手法では特徴づけられない多くの量子相が近年見出されてきた。これらの新しい種類の量子相を総称して、トポロジカル相と呼ぶ。ところで、対称性の自発的な破れで特徴づけられる従来型の相は、ハミルトニアンにもともと対称性がなければ自明な相と本質的に区別がつかなくなる。これと同様に、対称性の自発的な破れを伴わないトポロジカル相の中にも、何らかの対称性の存在下ではじめて自明な相と区別できるものがあることが認識されてきた。このような相を「対称性によって保護されたトポロジカル(Symmetry-Protected Topological, SPT)相」と呼ぶ。SPT相の存在が最初に認識されたのは自由電子系におけるトポロジカル絶縁体相においてであるが、その後、相互作用する一般の量子多体系におけるSPT相の概念が確立した。特に、1980年代から盛んに研究されていた、量子反強磁性スピン鎖におけるハルデンギャップ相がSPT相の典型例であることがわかった。この講義では量子相と量子相転移全体の概観からはじめ、トポロジカル絶縁体とハルデンギャップ相を例にSPT相の考え方やその帰結を解説する。時間があれば、コホモロジーや量子異常などに基づく最近の発展も紹介したい。

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3. 物質科学のための群論入門:対称性原理から物性予測まで
 岸根 順一郎 先生 (放送大学)


「群論は物理学において最も役に立つ純粋数学である」といわれます。物質中で起こ る多様な現象を幅広く見渡す上で、系の対称性(回転対称性、並進対称性、時間反転 対称性、置換対称性など)に基づいて状態を分類・整理する枠組みを与える「群の表 現論」は強力な武器です。この強力さは、相手にする系(物質)の構造が多様で複雑 になればなるほど真価を発揮します。21世紀に入ってからの物質科学は、まさに物質 構造の複雑さや多様性を受け入れてそこから普遍的機能を引き出す方向で進んでいます。これは、複雑さを捨象した単純なモデルから多様な物性を引き出そうとしてきた 20世紀後半の物性物理学からの転換であるともいえます。このような時代の変わり目 にあって、いま群論は新しい命を吹き込まれようとしています。
この講義では、みなさんが(新たな時代の)群論ユーザーとなって新物質の機能を 予測したり自分の研究テーマを発掘したりする際に生かせるようになることを目指し ます。群論のアウトラインから始め、次に実空間の電子論(点群、結晶場分裂、スピ ン状態、多電子状態など)を扱います。その後、結晶中に広がった自由度つまり波数 空間の物理(空間群、バンド電子、フォノン、様々な長距離秩序状態)に移ります。 そして、これらの基礎知識を活用する例題として「対称性の破れとランダウ理論」、 「複雑磁気構造」、「非従来型超伝導」、「マルチフェロイック秩序」といった話題 を扱います。これらの知識は研究の現場で役に立つはずです。最後に対称性とトポロ ジーの関係、カイラリティと物質機能といった先端的な話題にも触れようと思いま す。

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4. 心と脳のダイナミクス:数理科学的理解はどこまで進んだか?
 津田 一郎 先生 (北海道大学大学院理学研究院数学部門)


物理学は自然現象の本質を物理法則という形で取り出し、人類の宇宙、自然に対する理解を深めるのに貢献してきた。他の自然科学もそれぞれ自然を理解する独自の方法論を提供してきた。他方、経済学・社会学は人間の行動の集合としての社会現象と社会構造を記述することで人間行動への理解を深めるという寄与をしてきた。
それでは、数学という学問は何を対象にした学問なのだろうか。20世紀前半のいわゆる「ヒルベルトの23の問題」以降、数学はその内部で独自の運動を繰り返し、数学の数学による数学のための学問として独自の発展を遂げてきた。しかし、20世紀より以前、あるいは古代ギリシャ、さらには古代エジプトまで遡りその素朴な現れを見れば、それは人々の欲求、行動を形にするための表現であったことが首肯されよう。私は一般に数学という学問は人の心、それも抽象化された普遍的な心の表現だと理解している。このような観点から、脳のダイナミクスは抽象化され普遍化された心が個々の脳という物理世界を通過するときに現れる心の痕跡であると考えるようになった。脳のダイナミクスに埋め込まれた数学を抜き出すことで、脳の発展と活動を支配する心の法則を発見することができるだろう。
本講義では、この心と脳のダイナミックな過程において脳の中に埋め込まれたはずの数学を抜き出す一つの試みを紹介する。私たちは脳を複雑系の典型と捉えてきたので、まずは複雑系科学の歴史を振り返る。次に、脳ダイナミクスのカオス力学系による理解に関して現在までに分かったことを講義する。記憶、思考・推論がどこまで数学的に理解でき、また数理モデルによる予測がどこまで実証されたかにも触れる。さらには、自己制御系としての脳と心を数学的に定式化するにはどうすればよいかについての試論を述べ、可能ならば脳の病態の解明に対する数理科学からの挑戦にも触れたい。  

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5. ゲージ・重力対応で探る非平衡統計物理学
 中村 真 先生 (中央大学理工学部物理学科)


前世紀末から今世紀の初頭にかけて、超弦理論の分野では「ゲージ・重力対応」と呼ばれる理論上の大きな発見があった。この対応は、正確性を犠牲にして説明するならば、「ゲージ粒子の微視的理論であるゲージ場の量子論は、本来重力を記述するはずの一般相対性理論に書き換え可能である」ことを意味している。この講義では、ゲージ粒子の多体系に「ゲージ・重力対応」を適用し、ゲージ粒子多体系の非平衡物理学を重力理論の枠組みで解析する試みを解説する。重力理論側では微視的理論の粗視化がたかだか数本の微分方程式を解く作業に帰着しており、この顕著な性質から、線形応答を超えた非平衡物理の解析を比較的容易に行うことが可能となる。本講演で網羅したいと考えている内容は、概ね次の通りである。
1.一般相対性理論とは何か
2.ブラックホールと熱力学
3.超弦理論とは何か
4.ゲージ・重力対応の基本的な考え方
5.ランジュバン系の重力理論による記述と摩擦係数の計算
6.線形応答理論との整合性
7.重力理論による非線形電気伝導度の計算
8.重力理論を用いた新奇は非平衡相転移の「発見」
9.非平衡定常状態の有効温度、定常状態熱力学、そして今後の展望
本講義の内容は、とうてい数時間で解説可能なものではないが、少なくとも基本的な考え方、やその動機を説明することで、今後の有益なスタート地点を提供できればと考えている。  

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6. テンソルネットワークと量子情報・可解性・重力の関わり
 松枝 宏明 先生 (仙台高等専門学校情報電子システム工学専攻)


テンソルネットワークは,相互作用する量子多体系に対する変分波動関数である.従来,物性のための場の量子論のテキストで紹介されている諸方法と異なり,この方法では対象とする系の臨界性や空間次元に応じて適切なネットワーク構造が自然に定まるところにその特徴がある.それを統制している機構が,エンタングルメント・エントロピーと呼ばれる量子情報量の普遍的なスケーリング特性である.このネットワーク構造とスケーリング特性を深く理解することで,物性の変分理論としてのテンソルネットワークが,数理物理やストリング理論など多方面の最先端課題と非常に深く結びついていることが分かる.本講義では,テンソルネットワークの技術的な側面に加えて,そのような分野横断的な視点を持つことの面白さや意義を若い学生の皆様にお伝えしたい.先ず初日にテンソルネットワークの分類学と諸性質について述べる.2日目には,空間1次元のテンソルネットワーク(行列積状態)がベーテ仮設法と等価であることを述べる.最終日には,テンソルネットワークと量子古典変換の関わりを論じ,ストリング理論分野で大きなテーマとなっているゲージ・重力対応やホログラフィックくりこみ群の視点から,テンソルネットワークの位置づけを再考する.

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